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最高裁判所第三小法廷 昭和49年(行ツ)4号 判決

上告人

東京郵政局長

関正明

右訴訟代理人

藤堂裕

右指定代理人

柳川俊一

外八名

被上告人

沖典明

右訴訟代理人

後藤昌次郎

外四名

主文

原判決を破棄し、第一審判決を取り消す。

被上告人の請求を棄却する。

訴訟の総費用は被上告人の負担とする。

理由

上告代理人藤堂裕の上告理由及び上告代理人貞家克己、同近藤浩武、同矢崎秀一、同粂田富史、同中原司良の上告理由第一点について

一本件につき原審が確定した事実関係は、次のとおりである。

(一)  被上告人は、昭和三六年一〇月五日本所郵便局に臨時雇として採用され、同三九年七月一日第二集配課勤務となり、郵便外務(配達)をその職務とする一般職の国家公務員であつて、行政過程に関与せず、単に機械的労務を提供するにすぎない非管理職の現業公務員である。

(二)  被上告人は、日曜日で勤務時間外である同四一年五月一日、東京都立代々木公園で行われた第三七回中央メーデーの集会に参加し、さらに同集会後に行われたメーデー参加者による集団示威行進に参加したが、右集団示威行進に際し、会場出発後約三〇分間にわたり、「アメリカのベトナム侵略に加担する佐藤内閣打倒―首切り合理化絶対反対全逓本所支部」と記載された横断幕(横約2.5メートル、縦約一メートルの布製の横断幕の両端を竹竿で支えるもの)を掲げて行進した。右行為は被上告人の職務又は国の施設を利用することなく行われたものである。

(三)  右横断幕の記載文言は、全逓信労働組合本所支部の選定にかかるものであり、被上告人は、同支部青年副部長として横断幕の記載文言の選定に参加し、また自らその文言を書くなどして指導的な役割を果たしたものである。

(四)  上告人は、被上告人の右行為は人事院規則一四―七(以下「規則」という。)五項四号、六項一三号に該当し国家公務員法(以下「法」という。)一〇二条一項に違反するから、被上告人は法八二条一号及び三号に該当するとして、同年一一月二二日付で被上告人に対し戒告の懲戒処分をした。

二原審は、以上のような事実を確定したうえ、法一〇二条一項、規則五項四号、六項一三号の規定は被上告人の本件行為に適用される限度で憲法二一条に違反するから、右規定を適用してされた本件戒告処分は違法である、と判断した。

三論旨は、要するに、原審が法一〇二条一項、規則五項四号、六項一三号の規定は被上告人の本件行為に適用される限度において憲法二一条に違反すると判断したことは、憲法の解釈適用を誤つたものである、というのである。

四ところで、法一〇二条一項、規則五項四号、六項一三号の規定の違背を理由として法八二条の規定により懲戒処分を行うことが憲法二一条に違反するものでないことは、当裁判所の判例(最高裁昭和四四年(あ)第一五〇一号同四九年一一月六日大法廷判決・刑集二八巻九号三九三頁)の趣旨に徴して明らかであるから、原判決は憲法二一条の解釈適用を誤つたものというべきである。そして、右違法が判決の結論に影響を及ぼすことは明らかであるから、論旨は理由があり、原判決は、その余の点につき判断するまでもなく、破棄を免れない。

そこで、進んで、本訴請求の当否について判断するに、被上告人はメーデーにおける集団示威行進に際し約三〇分間にわたり、「アメリカのベトナム侵略に加担する佐藤内閣打倒」と記載された横断幕を掲げて行進したというのであるから、被上告人の右行為は特定の内閣に反対する政治的目的を有する文書を掲示したものとして規則五項四号、六項一三号に該当し法一〇二条一項に違反するものと解するのが相当である。

次に、被上告人は本件戒告処分は公務員の憲法擁護義務に違反すると主張するが、前記のとおり被上告人の本件行為を理由に戒告処分をすることは、憲法に違反するものではないから、右主張は採用することができない。また、郵政職員が法一〇二条一項に違反する政治的行為を行つた場合には、それが労働組合活動の一環として行われたとしても、法八二条の規定による懲戒処分の対象とされることを免れない。

したがつて、被上告人の本件行為は、法八二条一号及び三号の懲戒事由に該当するというべきであるが、上告人が職員につき懲戒事由があると認める場合にいかなる処分を選択すべきかについては上告人の裁量に任されているものと解されるところ、一方において被上告人の行為が前記のとおりのものであり、他方において上告人の選択した被上告人に対する処分が懲戒処分として最も軽い戒告処分であることを考えると、仮に被上告人が主張するように他に被上告人と同様の行為をしながら処分を受けない者がいたとしても、右処分をもつて社会通念に照らし合理性を欠き懲戒権の濫用にあたるものということはできない。してみれば、被上告人の本件行為を理由としてされた本件戒告処分にはこれを取り消すべき違法はなく、同処分の取消を求める被上告人の請求は失当として棄却すべきものであり、これを認容した第一審判決は取消を免れない。

よつて、行政事件訴訟法七条、民訴法四〇八条一号、三九六条、三八六条、九六条、八九条に従い、裁判官環昌一の反対意見があるほか、裁判官全員一致の意見で主文のとおり判決する。

裁判官環昌一の反対意見は、次のとおりである。

本件の主要な論点は、(ア) 法一〇二条一項、規則五項四号、六項一三号の規定が憲法二一条に違反するものでないかどうか、(イ) 右各規定が合憲であるとされた場合、被上告人の本件行為に右各規定を適用してされた本件懲戒処分が正当であるかどうかである。多数意見は、当裁判所昭和四九年一一月六日の大法廷判決(以下「大法廷判決」という。)の趣旨に徴して法一〇二条一項、規則五項四号、六項一三号の規定の違背を理由として懲戒処分を行うことが憲法二一条に違反するものではないと判示する。そこで、以下大法廷判決の判示するところに即しつつ右の論点について順次私見をのべることとする。

一先ず(ア)の論点について検討する。

(一)  大法廷判決は公務員(ここでは国家公務員を念頭において考える。)に対する政治的行為制約の憲法上もつ意義一般について、政治的行為が政治的意見の表明としての面において憲法二一条による保障を受けるものであり、しかも同法条の保障する表現の自由は、民主主義国家の基盤をなし、国民の基本的人権のうちでもとりわけ重要なものであるが、同時に公務員によつて運営される行政の中立性の確保と国民のこれに対する信頼の維持もまた憲法の要請するところであるから、特に行政にたずさわる公務員に対し政治的中立性を損なうおそれのある政治的行為をすることを禁止することは、それが合理的で必要やむをえない限度にとどまるものである限り、憲法の許容するところであるとの趣旨を判示する。右の判示はもとより正当であり、国民の表現の自由を国の権力特に行政上のそれの行使による侵害から保障するという観点からすれば、公務員がその公務の執行に当つて政治的中立性を堅持すべきことはむしろ表現の自由保障の基本条件であるとさえいうことができる。

(二)  他方、公務員も、その生存のすべてを国に捧げているものではなく、現行法のもとではその公務員としての職権・地位等によつて広狭の差は大きいがそれぞれに国民全体の一員としての私的生存の部面を保有するものであり、その面において政治的意見の表現を含む表現の自由の保障を受けるべきものであることはいうまでもないから、公務員に対する政治的行為の禁止は、それが前述のように合理的で必要やむをえない限度にとどまる限りにおいてのみ憲法上許容されるものであり(以下このことを「合理的最小限度の原理」という。)、当然のこととして、右の禁止はなくまでも例外としてのものである。このことは、公務員の政治的行為の制限を論ずるに当つて忘れることがあつてはならないものと考えられる。

(三)  大法廷判決は、前記判示の趣旨を前提として、法一〇二条一項、規則五項三号、六項一三号の規定が、公務員に対し、その職権や職務権限、勤務時間の内外、国の施設の利用の有無等を区別することなく、あるいは行政の中立的運営を直接、具体的に損なう行為のみに限定することなく、公務員の一定の行為を一律に違法として禁止しているからといつて右各規定が合理的最小限度の原理に反するものではないとの趣旨を判示する。この判示の趣旨は、本件における法一〇二条一項、規則五項四号、六項一三号の規定の合憲性についても妥当するものと考えられるが、私も、これらの規定が前記のようにすべての公務員に一律に一定の類型の行為を政治的行為として禁止していることのみを根拠として、それが合理的最小限度の原理に反する違憲の立法であるとするのは相当でないと考える。しかしながら、すでにのべたように、ひとしく公務員といつても、現行公務員法制のもとにおいてその生存を国に捧げる度合いないし広狭は多種多様であるから、合理的最小限度の原理に基づく憲法上の要請をより一層高度に達成しようとすれば、各種の公務員それぞれの実体に即応するよう緻密に配慮した立法がされることが望ましいところであり、その意味で現行法制の不十分を指摘することができないわけではないであろう。しかし、そのためには現行公務員制度全体の再検討を前提とする実質上、立法技術上の多大の困難が存することは見易いところであることからすれば、後にのべるようにこれらの規定の解釈・適用の段階において合理的最小限度の原理に対する慎重な考慮がされることを前提とする限り、右の各規定の合憲性はこれを肯定すべきものと考える。

(四)  大法廷判決は、更に、公務員の政治的行為に対する法一一〇条一項一九号(罰則)の適用に関してではあるが、具体的な行為につき罰則を適用する限度においてという限定を付して右罰則を違憲と判断することは、法令の一部を違憲とするにひとしいとして、このような判断の形式を用いることは許されないとの趣旨を判示する。この趣旨は、本件における前記法一〇二条一項、規則五項四号、六項一三号の規定の合憲性の判断についても同様であるというべきである。私は、以上のように考えるから、右法及び規則の規定が憲法二一条に違反するものでないと解する。

二そこで進んで前記(イ)の論点について考察する。

(一)  法一〇二条一項の委任に基づき公務員に対して禁止される政治的行為を目的と行為の両面から定義する規則五項、六項それぞれの各号の規定を通覧すると、その内容は各種の行為を類型別に極めて細密かつ網羅的に定めるものということができ、しかもその禁止の効力は行為がなんらの名義又は形式をもつてするを問わず及ぶものとされている(規則六項一七号)から、公務員の行う政治的行為として許されるのは、法一〇二条一項の定める選挙権の行使のほか、辛うじて極めて限られた範囲の消極的行為だけであるといつてよいようにみえる。その結果、このように定められた規則五項、六項それぞれの各号の規定を具体的な公務員の行為に適用するに当つて、その行為がこれら各号の規定の定める要件に該当するかどうかをその形式的文言のみによつて決するとすれば、およそ政治的色彩のある行為であつて許容される行為を発見するのに苦しまざるをえないであろう。のみならず、大法廷判決の判示するように、特に国家公務員については、その所属する行政機構の多くは広範囲にわたるものであるから、当該政治的行為のもたらす弊害が軽微なものであつても、そのような行為が累積されることによつて現出する事態を軽視し、その弊害を過少に評価することがあつてはならないということになると、当該公務員の具体的な行為が、その者の職種・職務権限や当該行為の態様等から、実質上行政の中立性を損ない、これに対する国民の信頼の維持をゆるがすようなものとは法的良識に照して認められないような場合にまで禁止違反の責めを問うことになりかねず、かくては個々の公務員にとつて合理的最小限度の原理は単なる名目ないし画餅にすぎないこととなる場合がないとはいえない。このような見地から、私は、大法廷判決が、衆議院議員の選挙に際して、特定の政党を支持する政治的目的を有する文書を掲示し又は配布する行為が規則五項三号、六項一三号の規定に違反するものであり、この行為に法一一〇条一項一九号の罰則を適用することは、当該公務員の職務内容が機械的労務の提供にとどまるものであり、当該行為が勤務時間外に、国の施設を利用することなく、職務を利用せず又はその公正を害する意図なく、かつ、労働組合活動の一環として行われた場合であつても違憲でない旨判示する趣旨を、規則五項、六項それぞれの各号の定める政治的目的を有する行為のすべての解釈・適用にあたつて安易に一般化すべきものではないと考える。要するに、合理的最小限度の原理は、関係実定法規の憲法二一条への適合性の判断基準であると同時に、その解釈・適用の基本原則であり、かつ、その結果として当該公務員に対してされた具体的処分の正当性の有無を決定する原理でもなければならないと思うのである。

(二)  以上の観点に立つて本件をみると、被上告人の本件行為の社会的実体は、昭和四一年のメーデーにおける示威行進に一労働組合員として参加したことにほかならない。本件横断幕は行進の趣意をあらわす標識であり、その掲出行為は本件行進を示威行進たらしめる要素として行進そのものに包摂される行為というべきである。そして本件行進に接する一般国民は右掲出の結果としてそれがメーデーの一行事であることを容易に理解しえたものと考えられる。当時すでにわが国においても、メーデーが年中行事として世界的に広く行われる労働者の祭典であり、私企業労働者のみならず公務員その他の公共事業の労働者等が参加して、労働者の団結と連帯を誇示する行事であることの認識は国民の間に広く行きわたつており、たとえそこに何ほどかの政治的色彩が認められるとしても、公務員の労働組合等がこれに参加することによつて、国民に、行政の中立性が損なわれるとの危惧の念を起こさせるようなものでなかつたし、このような立場から右行事を論ずることが一般であつたような事実もなかつたことは公知の事実というべきである。また、本件横断幕に記載された文言も右メーデーにおけるスローガンの一つであると認められ、被上告人ないしその属する一群の行進者が、特にメーデーの行進を利用して当時の佐藤内閣の打倒を国民に訴えるべく一般の参加者とは特異の行動をしたものであるとも認められない。そうすると、右横断幕の文言の故にその行進が政治的目的をもつものと解することができないものではないとしても、横断幕の掲出そのものに特に一個の政治的行為としての法的意義を認めようとすることは、右にのべたメーデーにおける行進の実体にそぐわない無理な解釈というほかはない。また、このように解することは、規則六項一〇号の規定が特に政治的目的をもつてする示威行進を政治的行為の類型の一つに掲げたうえ、おそらくは合理的最小限度の原理に配慮して単に行進に参加したにとどまる公務員の行為を禁止すべき行為としなかつたと解せられる右規定の趣旨を没却するものとのそしりを免れないものである。なお、原審認定の事実中には、被上告人が右示威行進を企画し、組織し若しくは指導したとの事実をうかがうに足るものは存しない。

そうすると、被上告人の本件行為を規則六項一〇号所定の類型に属する行為とみることなく、六項一三号の規定によつて禁止された政治的行為に当るものとしてされた本件懲戒処分には法令の解釈・適用を誤つた違法があり、本件懲戒処分はすでにこの点において取消を免れないものというべきである。原審が、右各規定を、被上告人の本件行為に適用する限度において違憲としたことは、前記大法廷判決の趣旨に徴して誤りとするほかはないが、本件懲戒処分を取り消すべきものとした結論はこれを維持すべきものであるから、結局論旨は理由がなく、本件上告はこれを棄却すべきものである。

(環昌一 伊藤正己 寺田治郎)

上告代理人藤堂裕の上告理由

原判決が、上告人の被上告人に対する本件懲戒処分は、被上告人の本件行為に国公法一〇二条一項、人事院規則一四―七第五項四号、六項一三号が適用される限度において右各規定が憲法二一条に違反するからこれが無効なものであるとし、その理由として、憲法二一条一項の保障する表現の自由の制限は必要最少限のものでなければならないとする原則について、被上告人が機械的労務を提供するに過ぎない非管理職にある現業公務員であることをもつて、被上告人の本件行為は、憲法一五条二項に規定する公務員の全体の奉仕者性に由来する公務員の政治的中立性に対する国民の信頼を損うおそれがないとする判断をしていることは、憲法一五条二項および二一条一項の解釈を誤つたものである。

一、原判決も判示しているとおり、国公法一〇二条一項、人事院規則一四―七第五項四号、六項一三号は、公務員は全体の奉仕者であるからいわゆる非政治的公務員が行政の政治的中立性を阻害し、または行政の政治的中立性に対する国民の信頼を損うおそれのある政治的行為を制限しているものであつて、憲法一五条二項にその根拠が求められるべきものである。しかして、国民の政治的行為の自由は、憲法二一条一項が保障する表現の自由の中核をなすものであつて、これを最大限に尊重する必要から、これに対する制限は、必要最少限度のものでなければならないことも亦、原判決説示のとおりである。

しかし、非政治的公務員による行政の政治的中立性、またはその中立性に対する国民の信頼を確保するという国公法一〇二条一項等の目的達成の必要性の限界をみる場合、これを原判決のように、公務員の地位職務内容、職務上の行為か職務外の行為か、勤務時間内の行為か勤務時間外の行為か、国の施設を利用してなされたか否か、職務を利用する意図をもつてなされたかあるいは行為の内容、という観点からとらえようとすることは、以下に述べるとおり、重大な誤りを犯しているといわなければならない。

憲法一五条二項にその根拠を求めることができる前記国公法一〇二条一項等の目的は、憲法一五条二項が遍く平等(憲法一四条一項)に国民に対して公務を奉仕するためには、非政治的公務員についていえば、これが行政の政治的中立性を阻害したり、行政の政治的中立性に対する国民の信頼を損うことがないよう実質面、形式面を問わず保障しようとするところにある。そして、右の法目的が設定されるについては、この目的を阻害するいくつかの局面が想定されているのである。この点について、人事院規則一四―七第五項四号、六項一三号に係るものについてみてみよう(なお、以下の論点については、米連邦最高裁判所、一九七三年六月二五日判決参照。cf. U.S.Civil Service Comm. v. Letter Carriers, 41LW 5122(The United States LAW WEEK, 6-26-73))。

(一) まず第一の局面は、原判決が説示するように、機械的労務を提供するにすぎない非管理職にある現業公務員が、勤務時間中あるいは国の施設を利用して政治活動を行なう場合や、その職権その他公務員であることから生ずる公私の影響力を政治目的のために利用しあるいは利用しようと企てる場合であり、これらが公務の公正な能率的運営を阻害し、公務の中立性に対する国民の信頼を損うこと明らかであつて、これらの場合について右の公務員に関して政治的行為を制限する必要があることは多言を要しないところである。

(二) 次に、政策の立案、決定および執行ならびに法律の立案、定立など行政過程に関与しないという意味での機械的労務を提供するに過ぎない非管理職たる公務員(単なる機械的労務者とは異るものである。原審における控訴人の昭和四七年五月一五日付準備書面一、(二)参照)が、政治目的をもつなんらかの行為をなしたことの代償として職員の地位に関してなんらかの利益を得ようと企てる場合が想定される。この点も、原判決が指摘しているところである。そして、この場合、右公務員の利益期待的行為が公務の中立性に対する国民の信頼を損い、あるいは公務の公正が害される虞れがあるものであることは明らかなところであろう。しかして、この場合の弊害は、右の公務員が、例えば昇進や昇格がある政治的目的に係る行動によつて左右されるであろうとの期待をもつて行動する場合にあらわれるのであつて、ここで問われる内容は、政治的に極めて高位のものから、末端の公務員によつてもなしうるような低位、間接的なものまで種々雑多な内容を含むものである。またこの行動は、時の政治の方向に対して否定的(その最たるものは、「特定の内閣に反対する」ことである)な内容である場合と、肯定的(その最たるものは、「特定の内閣を支持する」ことである)な内容である場合がある(前者は、とりわけ行政の内部から体制を破壊しようとする企てがなされる場合に問題となる)。そして、これらの行動は、その公務員自らが、前記のような期待をもつている場合ばかりでなく、上司の指示、圧力、誘惑などによつてひきおこされる場合がある。この場合には、その公務員の現実の行動は、職場や勤務時間の内外を問わず、また職務との関連性いかんに拘らずあらわれてくるものである。

右のような局面に対して、前記の法目的を達成するための保障を備えるためには、行動の主体となる公務員に対して、右のような利益期待的行為を禁止するとともに、公務員が、上司のかかる指示、圧力、誘惑から自由であることを保障するのでなければならない。そこには、当然のことながら、行動の主体となる公務員の行為の直接の規制のほかに、その公務員が上司の影響から自由であることをとおしてその背後にあつてその公務員に対して影響力を及ぼしうる立場にある公務員を含めた規制を行なうところにも一半の目的があるのである。しかして、かかる観点からしての法規制がなされていることが、形式面において、行政の政治的中立性と、それに対する国民の信頼を保護しているのであり、また非政治的公務員全体がかかる法規則に従つた現実の行為(不作為)を行なつていることが、実質面において、行政の政治的中立性と、これに対する国民の信頼を保護することとなるのである。

ところで、原判決は、国公法一〇二条一項等の前掲諸規定は特定の内閣に反対する政治目的を有する文書を掲示することを一律に禁止しているが、これは機械的労務を提供するにすぎない非管理職の現業公務員が勤務時間外に、国の施設を利用することなく、かつ職務を利用しもしくはその公正を害する意図なしに行なつた場合には、その行為により公務の中立性が害されるおそれのないことはもとより、国民の信頼を損うおそれもまたないものとし、これを立論の根拠として被上告人の本件行為に対する国公法一〇二条一項等の適用を排斥している。この判断は、「個別的具体的検討」という一見合理的な方法論を用いているかのようであるが、実は、行動主体となつた公務員(被上告人)について微視的検討を加えたにとどまり、その行動主体の行為をとおしてみた場合の行政の政治的中立性に対する国民の信頼、すなわち当該行動主体のその行為が上司による指示、圧力、誘惑や上司がその行為を放任しておくことによつてその行為の効果を期待するという方法に関する国民の不信に対する観点を全く捨象したものである。

(三) 非政治的公務員が全体の奉仕者であつて一部の奉仕者であつてはならないために政治的に中立性を保持し、かつ国民からもこの点に関する疑惑を抱かれないように行動しなければならないものとされる第三の局面として、次の観点を無視するわけにはいかない。

すなわち、公務員の規模は、公知のとおり極めて尨大なものであり、この組織のもとに政治的勢力が結集することになれば、巨大な組織力を形成する。この力は、職場や勤務時間の内外を問わず、また職務との関連性いかんに拘らず発揮されうるのである。そして、このような組織力が形成された場合、その方向が体制的なものであろうと反体制的なものであるとを問わず、往々にして国の政治の方向は、この組織力による宣伝等をとおして国民の真の利害から離れて遠いものとなる危険を含んでいる。そして、このような組織力は、現実の問題としては国民が負担する公費によつて維持されることになるのである。

しかし、国民の総意は、このような事態を期待していないことは明らかであり、またこのような事態があつてはならないと考えていることも明らかであろう。そして、右のような組織力の形成とその現象としての政治的行為は、当然のことながら、原判決のいうような職務とか勤務等に係ることなく、またそれぞれの公務員が機械的労務を提供するにすぎない非管理職である現業公務員であるかどうかに拘らずありうるのであつて、原判決のいうような視点からはとらえられないものである。

国民の行政の政治的中立性に対する信頼は、右のような組織力の形成について一抹の不安だにないところに成立するものであり、公務員の行動をとおしてこの点に関する危惧を抱くおそれがある場合には、その行動は、行政の政治的中立性に対する国民の信頼を損うこととなるのである。しかして、このような観点は、憲法一五条二項に規定する公務員の全体の奉仕者性のうちに含まれているのである。しかして、原判決が認定した被上告人の本件行為をみた場合、右の観点からして行政の政治的中立性に対する国民の信頼を損う虞れのない行為であると断定できるであろうか。

以上のとおりみてくると、原判決が被上告人の本件行為に対して国公法一〇二条一項、人事院規則一四―七第五項四号、六項一三号を適用することは、表現の自由に対する必要最少限を超えた制限であり無効なものであるとする判断の過程において、究極的に憲法一五条二項にその根拠が求められるべき非政治的公務員による行政の政治的中立性と、それに対する国民の信頼を確保するに必要な限度を判断する要素を導くにつき、前記(二)および(三)の観点を無視したことは、明らかに憲法一五条二項の解釈を誤つたものといわなければならない。

二、原判決は、憲法二一条一項の保障する表現の自由は、最大限に尊重する必要があるから、この制限は必要最少限のものでなければならず、いやしくも制限目的を達成するに不必要な制限を加えることは許されないとし、すべての一般職に属する職員に適用される国公法一〇二条一項、人事院規則一四―七第五項四号、六項一三号は、被上告人の本件行為に適用される限度で憲法二一条一項に違反する、と判示している。

(一) 憲法二一条一項の保障する表現の自由に対する制限が必要最少限度のものでなければならないことについては、上告人もこれを否定するものではない。しかし、表現の自由についても、ある程度制限の可能性を認めるのであれば、その制限の限界は、個別的・相対的に検討されなければならない。本件においてこの相対的検討を加える場合、対照されるべきものは、全体の奉仕者として行政の政治的中立性とそれに対する国民の信頼を確保すべき非政治的公務員についてはどのような理由からいかなる範囲で表現の自由が制約されざるをえないかという命題であり、その憲法理念としては、更に国民全体に対する平等の理念と議会民主制があるのである。したがつて、これらの理念を背景として、公務員の全体の奉仕者性に究極的根拠をもつ非政治的公務員における行政の政治的中立性とそれに対する国民の信頼を確保すべきものとする要請を理解する場合、前記一、(二)および(三)において述べた観点を捨象して考えることはできないのである。そうだとすれば、表現の自由の制約原理として相対的に評価されるべき法的要請は、原判決が説示しているような個別公務員の地位職務内容、職務上の行為であるか否か、勤務時間中の行為であるかどうか、国の施設を利用したかどうか、職務を利用する意図をもつてなされたものかどうかなど個別的具体的事項に極限されるべき性質のものではないといわなければならない。言い換えれば、憲法二一条一項の解釈として、その制限の必要最少限度を右の個別的具体的事項によつて判断すべきであるとすることは、憲法二一条一項の解釈を誤つたものであるといわなければならないのである。

(二) 従来、上告人は、前記一、(二)で述べた意味での機械的労務を提供するに過ぎない非管理職の現業公務員の法的地位について、要旨次のとおり主張してきた。

すなわち、右のような公務員は、その提供する労務の性質に関する実態面をみれば、あるいは私企業や公共企業体の職員と相通ずる面があるとされることもやむをえないであろうが、本件の争点はそのようなところにあるのではない。公務員のある政治的行為によつて、具体的にどういう公務が阻害されたか、あるいは阻害される危険があつたかという公務の能率的運営に対する実害やその危険があることが公務員の政治的行為の制限の理由なのではなく、公務員の司る行政の政治的中立性に対する国民の信頼の確保、維持という点にその制限の理由があるのだから、法的には公務員の任用関係、すなわち公務員としての職員の身分ないし地位の設定に関する側面において理解されるべき事柄であり、またこの法的側面に本件の争点がある。それぞれの公務員は、彼らがどのような地位、職務内容をもつものであれ、自らの自由な判断と選択によつて公務員の地位を得、またそこにおける地位、労働条件などに不満があれば、その地位から脱退する自由を有するのである。

原判決は、上告人の右の点に関する主張については、憲法一五条に規定する全体の奉仕者たることは、公務員の政治活動の制限の根拠とはなりえても、その必要最小限度の制限の程度、範囲をここから導くことはできない旨判示している。

公務員が全体の奉仕者であることの意味内容は、これまで縷々述べてきたところから明らかなように、本件に則していえば行政の政治的中立性とそれに対する国民の信頼を確保するところにあるのであるから、その要請を充すためにここからどの程度、範囲の制約原理を導くことができるかは、まさに憲法一五条二項が規定する公務員の全体の奉仕者性のうちに内在する問題である。公務員が全体の奉仕者であるということは、単に公務員の政治活動を制限する根拠を与えているに過ぎずその制限の程度、範囲は別の理論から導かれるといつたようなものではないのである。

(三) 右のようにみてくると、公務員が国民に対する全体の奉仕者であることに由来する表現の自由の制限の限界は、前記一、(二)および(三)の観点をふまえたうえで決定されるべき事柄であり、この場合、国公法一〇二条一項、人事院規則一四―七第五項三号、六項一三号がすべての非政治的公務員に適用されるものとしてこれらがはたして必要な限度を超えたものかどうかという観点から判断されなければならないこととなろう。

以上のとおりであるから、原判決が被上告人の本件行為に対して国公法一〇二条一項、人事院規則一四―七第五項四号、六項一三号を適用することはその限度で憲法二一条一項に違反すると判断したことは、憲法二一条一項が規定する表現の自由の保障の限界についての解釈を誤つたものといわなければならない。

以上

上告代理人貞家克己、同近藤浩武、同矢崎秀一、同粂田富史、同中原司良の上告理由〈省略〉

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